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笠置シズ子

御隠居の杉山フク

km自動車の大株主・杉山家の御隠居。 大事にされるあまり、80歳になっても観光バスに乗ったことも、団子を食べたことも、遊園地に行ったこともないかわいそうなおばあちゃん。 まどかと同じ境遇の御隠居に身分を明かし、わずかな時間を遊園地で楽しく過ごす。 世の中がこんなに楽しいと思った御隠居は家から蒸発しバスガイドになろうとするが...


たった3人で観光バスを貸し切りにするなんていいですね! ところで言問団子って私も食べた事ありません。 言問橋付近で、まだ売っているんでしょうか?(第27話に出演)

(かさぎ しづこ、本名:亀井静子、1914年8月25日−1985年3月30日)戦後、「ブギの女王」として一世を風靡した昭和期の歌手、俳優。


香川県大川郡相生村(現・東かがわ市)に生れる。諸事情あり生後間もなく、大阪市福島区の米屋の養女となったが、シヅ子が自身の出生について気づくのは後年になってからであった。
1927年、小学校卒業後、宝塚音楽学校を受験、歌・踊りは申し分ない実力をもちながら不合格となる。理由は当時のシヅ子が上背が小さい上、極度のやせ気味であったため、過酷な宝塚生活に耐えられないのでは…との音楽学校側の判断があったという。しかし同年「大阪松竹楽劇部生徒養成所」(OSK日本歌劇団の前身)受験・合格、娘役・三笠静子の芸名で「日本八景おどり」で初舞台を踏む。その後、1933年、「秋のおどり・女鳴神」の演技でスターの仲間入りを果たす。1935年、崇仁親王が三笠宮を名乗ったのを機に、三笠を名乗るのはおそれ多いと笠置シズ子と改名し、1938年「帝国劇場」で旗揚げした「松竹樂劇団」に参加。服部良一と組んでジャズ歌手として売り出すが、派手な身振りが警視庁ににらまれ、1939年、丸の内の劇場への出演を禁じられる。松竹樂劇団が解散してからは、「笠置シズ子とその楽団」を結成して慰問活動などを行う。その一方、1939年には、『弥次喜多大陸道中』に映画初出演し、坊屋三郎、益田喜頓らと共演する。同年に知り合った服部良一によってコロムビア専属に迎えられ、「ラッパと娘」「ホットチャイナ」などがリリースされるが、激しく踊り歌う笠置のステージは当局の目に留まるところとなり、マイクの周辺の1m前後の範囲内で歌うことを強要され、戦時中は活躍の場が少なかった。ちなみに、戦後にヒットした「アイレ可愛や」はテーマを南方にしたことによって難を逃れたステージ用に作られた楽曲で、笠置は兵隊や軍需工場の慰問で好んで歌っていた。
戦後、1945年11月、再開場した日本劇場の最初のショーから出演し、1947年、日劇のショー『踊る漫画祭・浦島再び龍宮へ行く』で歌った、服部良一作曲(笠置の歌曲のほとんどを手がけた。)の『東京ブギウギ』が大ヒットし、戦後の荒廃した庶民の心に開放感をもたらす。以後『大阪ブギウギ』や『買物ブギ』など一連のブギものをヒットさせ、「ブギの女王」と呼ばれる。美空ひばりが登場するまでスーパースターとして芸能界に君臨した(美空は笠置の物真似で有名になった)。笠置のマネージャーをしていた男が美空ひばりを笠置より先にハワイでの公演をさせたため、真似されている本人が「美空ひばりの持ち歌を歌っている大人」として現地に誤解を招くという事態を招き、ひばりにブギを歌わせなかったと言われているが、当の笠置自身がそうした営利を目的とした人物の被害者であったことはあまり知られていない。
私生活では、交際していた吉本穎右(吉本興業の創業者・吉本せいの子息)が急死し、その数日後に吉本穎右との子、エイ子を生むという波乱な日々が続いていた。妊娠中の舞台「ジャズ・カルメン」を最後に、一旦は引退を考えたものの、服部良一や榎本健一をはじめとした周囲の励ましもあり、歌手生活の続行を決意。乳飲み子を抱えて舞台を努める姿は、当時「夜の女」「パンパン」と呼ばれた生活のために止むを得ず売春を行う女性たちに深い共感を与え、笠置の後援会はほとんどがそうした女性たちによって固められていた。
1948年の黒澤明監督の映画「醉いどれ天使」ではキャバレーの歌手を演じ、ワンシーンのみの登場だが非常に強い印象を残した。劇中歌「ジャングルブギ」は有名。なお同曲の作詞は黒澤監督本人。
ブギが下火となった1957年ごろ本人自ら”歌手廃業”を宣言。客を満足させる歌声・踊りが出来なくなったからとも、一人娘の育児を優先・徹底させるためだったともいわれたが、後年テレビの対談番組で、「廃業の理由は『太りかけたから』だった」と告白。つまり昔と同じように動けていれば太るはずはない、太ってきたのは動けていないからだ、ということだった。またそれに関連して「自分の一番いい時代(ブギの女王としての全盛期の栄華)を自分の手で汚す必要は無い」とも語っている。芸名もシヅ子と改め、俳優活動に専念する(かつてのヒット曲の一部にステレオバージョンが存在するが、引退直前にリバイバルで録音したモノラル盤を後年に加工したものであり、公私を問わず、引退後は一切鼻歌にいたるまで歌を歌わなかったと遺児は証言している)。また俳優活動専念に際しては各テレビ局、映画会社、興行会社を自ら訪れ、「私はこれから一人で娘を育てていかなければならないのです。これまでの『スター・笠置シズ子』のギャラでは皆さんに使ってもらえないから、どうぞギャラを下げて下さい」と出演料ランクの降格を申し出ている。得意の大阪弁を生かした軽妙な演技で多くの作品に出演する。また、1967年からは、TBSの人気番組『家族そろって歌合戦』の審査員、台所用クレンザー「カネヨン」CMのおばさんとして親しまれた。
1985年に卵巣癌で死去。享年70。
極度の潔癖症でもあったという。
2006年に上映された映画「UDON」では主人公の亡くなった母親役という設定で、遺影で出演した。


代表曲

笠置の代表曲には以下のようなものがある。 東京ブギウギ
ジャングル・ブギー
ホームラン・ブギ
大阪ブギウギ(全曲集の解説書によると、「御当地ブギ」としては一番売れた曲という)
セコハン娘(美空ひばりはこの曲の物真似でデビューする)
私の猛獣狩
ヘイヘイ・ブギー
買物ブギー(コロムビア・レコードの記念曲で、もう一曲は奈良光枝の「赤い靴のタンゴ」)
オリジナルでは後半に「つんぼ」という言葉が含まれていたが、現在はろう者に対する差別用語とみなされているため、CD等で再販された場合は、その部分がカットされている。しかしそれでは後半部のつながりが悪く、懐メロ番組などでは、別の言葉に置き換えて歌われる場合がある。
 作詞作曲は服部良一(詞は村雨まさお名義)。上方落語「無いもン買い」からヒントを得て作ったという。ブギのリズムに乗りながら、濃厚な大阪弁を連発し40種類近くの品物を一気に歌い上げるという前代未聞のユニークさ。その斬新さは単なるナツメロを越えて、「わが国のラップミュージックのはしり」と高く評価されている。


笠置シヅ子をモデルにした作品

NHK銀河テレビ小説「わが歌ブギウギ〜笠置シヅ子物語〜」…1987年放送。順みつき主演
ミュージカル「わが歌ブギウギ〜笠置シヅ子物語〜」…1994年上演。順みつき主演。
ミュージカル「わが歌ブギウギ〜笠置シヅ子物語〜」…2006年上演。真琴つばさ主演。


ウィキペディアより

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